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【国際社会に見捨てられた街】スレブレニツァ虐殺現場の今を見て感じること

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今からわずか20〜30年前のこと。当時のユーゴスラビア大統領であったチトーの死後に大統領の座を引き継いだセルビア人ミロシェビッチが掲げたイデオロギー「大セルビア主義」により、ユーゴスラビア構成国に独立模索と混乱の波が訪れます。

1992年に独立を宣言したボスニア・ヘルツェゴヴィナも例外ではなく、これに反発したセルビア人が主体のユーゴスラビア軍や、ボスニア系セルビア人による攻撃が始まりました。

特にボシュニャク人(ボスニア系ムスリム/イスラム教徒)は大セルビア主義にとっては「トルコ(オスマン帝国)からの侵略者」として考えられ、大セルビア主義に基づき、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内の様々な街でボシュニャク人に対する民族浄化が行われました。

その中でも最大規模に行われ、1995年7月11日からわずか10日間で「成功裏」に作戦が完了した街がスレブレニツァ Srebrenica。第2次世界大戦以降欧州で起きた最悪のジェノサイドと言われています。

今回はそのスレブレニツァに実際に足を運び、生存者や帰還者から直接聞いた話や目で見た内容を元に、何が起こったのが、今何が残ったのかを紹介します。

1. ボスニア・ヘルツェゴヴィナという国

現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナは1992年に旧ユーゴスラビアから独立した東ヨーロッパに位置する連邦制の国(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国による連邦国家)。

もともとこのエリアは古代ローマ帝国の影響下にあったものの、その地理的要因からキリスト教カトリックと東方正教会の対立の最前線だったと言われています。

現在でもその傾向は続いており、正教徒が大部分を占めるセルビアと、カトリック教徒が大部分を占めるクロアチアに東西を囲まれています。

さらには近世には約500年間もの間オスマン帝国による統治を受けたこともあり、ヨーロッパでは珍しくイスラム教徒の占める割合が非常に多いのも特徴。

彼らの見た目はヨーロピアン。ですが文化的にはオスマントルコに起源をもち、宗教はイスラム教。民族的には「ボシュニャク人」と呼ばれています。

この多民族・多宗教がボスニア紛争という第2次世界大戦後欧州で最悪の紛争とも言われる事件を引き起こすことになります。

第2次世界大戦後、バルカン半島の諸国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)はカリスマ的な大統領ヨシップ・チトー率いる「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の構成国として発展。

ユーゴスラビアは一時は欧州でも最も平和で豊かな国になるほど成功した社会主義国で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに住む人に言わせるとチトーがいた時は全てがうまくいっていたんだとか。

また、当時のユーゴスラビアは共産党一党独裁体制であったもののスターリン率いるソ連共産党とは対立関係にあり、冷戦中であっても米国など西側諸国とも良好な関係を維持。チトーは日本からも勲章を授与されています。

そんなこともあり、ユーゴスラビア時代はパスポートの力も強く東西にビザなしでいけ、言論の自由もあり、教育や医療は無料。

仕事も住居も政府から割り当てられ生活に困ることは何もなく、戦争に一切関与しなかった世界で最も平和な社会主義国だったと、多くの旧ユーゴスラビアを知る人は言います。

チトーはもともとクロアチア出身。スロベニア系の母とクロアチア系の父を持ち、ユーゴスラビア大統領としてセルビア共和国のベオグラードに居住していたものの、自分のことを常に「ユーゴスラビア人」と呼び、多民族他宗教を抱えるユーゴスラビアを一つにまとめあげていました。

またチトー政権下のユーゴスラビア憲法は構成する6つの共和国と2つの自治州の間でほぼ平等な主権を認め、民族による差別が生まれないような政策がベースにありました。

そのため、民族主義的な発言は逆に摘発の対象となり、チトー政権下ではセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人などという対立抗争が表面化することもありませんでした。

ユーゴスラビア発展の象徴が1984年に行われたサラエヴォオリンピック。共産圏では初めての冬季オリンピック開催でした。

しかしわずか10年後に、オリンピックスタジアムやその周辺は巨大墓地となり、サラエヴォの街は廃墟と化しました。

そんなことを想像した人は当時世界中に一人としていなかったはずです。

チトーがさったユーゴスラヴィアで何があったのでしょうか。

チトーが去った後にユーゴスラビア大統領になったスロボダン・ミロシェヴィッチ。セルビア民族主義派者で「大セルビア主義」を掲げました。

この大セルビア主義を簡単にいうと、セルビア人がヨーロッパに到着した際の居住地やその後中世でセルビア人が支配していたエリア全てをセルビアとみなすというもの。その範囲はクロアチア北部とスロベニアを除いたユーゴスラビア社会主義連邦共和国の全域に及びます。

この大セルビア主義に反発したクロアチア、スロベニアが1991年にまず独立を宣言。その後ボスニア・ヘルツェゴビナも1992年に独立を宣言します。

これに伴い、ユーゴスラビア軍はボスニア・ヘルツェゴヴィナから撤収。その際大部分の兵器も接収し、ユーゴスラビアの首都ベオグラード(セルビア共和国)もしくは後に設立されるスルプスカ共和国軍へと引き継がれることになりました。

つまり、独立宣言後のボスニア・ヘルツェゴヴィナにはまともな正規軍と呼べるようなものがなくなり、丸裸同然の状況となったのです。

ほぼ単一民族国家、セルビアと地理的に距離があり西欧諸国と国境を接する前者2カ国に対し、3民族3宗教が拮抗しセルビアに接してバルカン半島中心部に位置するボスニア・ヘルツェゴヴィナ。

これが泥沼の始まりです。

2. スレブレニツァで起きたこと

ボスニア紛争前のスレブレニツァは人口の75%(2万7千人)がボシュニャク人。残りの大部分がセルビア人という動態になっていました。

しかし、ミロシェヴィッチの大セルビア主義的には、このような多くのボシュニャク人がスレブレニツァにいるのは「トルコ(オスマントルコ)による侵攻」と考えられ、「トルコ人を追い出しセルビア人の土地を取り戻せ」というキャンペーンが始まります。

スレブレニツァ周辺のボシュニャク人を主体とする村のうち250以上がすでにセルビア人の手に落ちており、スレブレニツァにも危険が迫っていました。

そんな状況を受け、国連は1993年にスレブレニツァを「安全地帯」に指定。いかなる軍事的な行動も認めないとし、オランダ軍を主とする国連平和維持軍が駐留します。

一方、1992年にボスニア系セルビア人はボスニアヘルツェゴビア内にセルビア人のための「スルプスカ共和国」を設立。それに伴い、セルビア系武装組織は「スルプスカ共和国軍」を設立し、大セルビア主義を支持するラトコ・ムラディッチが率いるセルビア人部隊がスレブレニツァを包囲します。

そしてついに1995年7月11日、スルプスカ共和国軍はスレブレニツァを制圧。国連はほとんど抵抗することも出来ずこれを許してしまいます。

最悪なことに当時スレブレニツァの駐留部隊をまとめていたオランダ軍指揮官は、スルプスカ共和国軍を非難するどころか、ボシュニャク人をスルプスカ共和国側に引き渡すということ、そしてスレブレニツァでスルプスカ共和国軍が行うことに対し反応しないこと、スレブレニツァから撤退することでムラディッチと同意してしまいます。

またこの時ムラディッチが「全員死ぬか、全員去るか、2つの選択肢がボシュニャク人にはある。」とこのオランダ軍指揮官に発言していますが、その際オランダ軍指揮官は笑顔で平然とお酒を飲んでいる映像も残っています。

事実上国連側が一切手を打たないままの完全降伏です。

そんな中スルプスカ共和国軍はボシュニャク人を男女別に分け移送を開始。

国連軍はスレブレニツァ郊外にあるポトチャリというエリアにある国連施設に避難民を保護しましたがその数たったの2000人。

結局国連軍がムラディッチと同意を交わした後わずか10日の間に、8000人以上のボシュニャク人が国連軍がすぐ目の前にいるにも関わらず虐殺されることになります。

また女性や子供を中心とする生存者は強制移住させられ、スレブレニツァでの民族浄化が完了することになりました。

この地に2万7千人いたはずのボシュニャク人の多くが強制移住もしくは殺害されたのです。

そして大虐殺がすでに行われた後の7月21日。国連軍はスレブレニツァから撤退することになります。

この際、国連軍指揮官がムラディッチと笑顔で握手した後ギフト交換をしたり、笑顔でワインを片手に乾杯をする映像、スレブレニツァから撤退したオランダ軍兵士がハイネケン片手にその喜びから爆音の音楽とともに踊り狂っている映像まで残されています。

現在もスレブレニツァはボスニアヘルツェゴビアのセルビア人居住エリアであるスルプスカ共和国側に属し、紛争前はマジョリティだったボシュニャク人はごくごく一部の帰還者や生存者が残るだけとなっています。

街中で見られる国旗もボスニア・ヘルツェゴヴィナのものではなくセルビアやスルプスカ共和国のもの。

公式な人口統計は紛争後一切行われていませんが、現在の人口の5−7割はセルビア人ではないかと言われており、街の人口も紛争前の1/3近くにまで減少しています。

3. ポトチャリ国連施設

現在ポトチャリ国連施設はスレブレニツァ虐殺のメモリアルとして使用されており、ガイドもしくは担当者同伴という条件で一般開放されています。

建物入り口に書かれた文字は「The failure of International community」。簡単に言えば国連の失政です。

施設内部では当時の虐殺の映像やカラー写真がふんだんに公開されており、歴史の一部とは思えないほとなまなましく真新しい記録が残っています。

驚くのは、一列に並ばせ次々に射殺する映像、射殺された人をボシュニャク人に埋葬場にまで運ばせたのち、その場でそのボシュニャク人も射殺する映像のような、民族浄化を示すエビデンスが動画でしっかりと残されてるということです。

また、オランダ軍兵士が壁に書いたと思われる全裸の女性のグラフィティや兵士の娯楽グッズなども残されており、目の前で数千人が虐殺されている中、国連軍がいかに無力でスレブレニツァを見捨てたのかという皮肉を垣間見ることができます。

もちろんこれはオランダ軍だけの責任ではなく、オランダ軍側もスルプスカ共和国軍の過激化にともない国連本部に援軍や空爆支援を要請をしていましたが、その声が受け入れられることもなく結果として国際社会がスレブレニツァを見捨てたという事実のみが残されています。

4. 安全地帯で起きた虐殺

繰り返しますが、ここは国連軍が駐留し、国連によって指定された安全地帯。

にも関わらず民族浄化が国連軍の目の前で完了したのです。

運良く国連に保護された2000人が収容されたのが国連施設横にある旧工場跡。

現在こちらも一般公開されており、当時の写真や埋葬の様子、遺品などが展示されています。

5. スレブレニツァの犠牲者墓地

国連施設前にはスレブレニツァの虐殺の犠牲者8372人のための霊園があります。当時ボスニア紛争の仲介を行い、終戦させたビルクリントン元大統領によって設立されました。

没年は全てスレブレニツァの虐殺が行われた1995年。

しかしまだ8372柱全ては見つかっておらず、毎年新しいお墓が増えていきます。

というのも虐殺後投棄しては発掘しまた再度別の場所に投棄し、ということがスルプスカ共和国軍によって行われたため、遺体の損傷が激しくまた遺体の一部のみが様々な場所から見つかるということが頻発しており、身元特定がなかなか進んでないようです。

地平線にまで続くイスラム教のお墓。緑色の墓はこの年に埋葬された遺体の墓であることを示しています。

もともとこの地に住んでいた2万7千人のボシュニャク人。男性を中心に8000人以上が虐殺され、生き残る人の多くが強制移住。この街はいまもスルプスカ共和国の一部としてセルビア人の街。

こんな出来事がわずか20数年前にヨーロッパで起きているのです。

毎年7月11日に慰霊祭が行われ、その時だけはスレブレニツァ虐殺の生存者や遺族が世界中から集まります。

その日だけは、スレブレニツァにするセルビア人はほとんど全員と言っていいほど、すぐ近くのセルビア国境を超えスレブレニツァの街から消えるそうです。

6. スレブレニツァのセルビア人

現在のスレブレニツァはセルビア人主体のスルプスカ共和国側に属しており、行政主体もセルビア系。

また、スレブレニツァに今住むセルビア人の大多数が「セルビア人の地を取り返した」という態度を依然として持っており、虐殺の事実を認めたり謝罪をしたりしていないんだとか。

逆にセルビア人側はボシュニャク人によってセルビア人が多く犠牲を受けたことを主張し、スレブレニツァ中心部には、セルビア人犠牲者を祀った慰霊碑が建てられています。

止まることはできませんでしたがその慰霊碑前を道中通ったので、動画をご覧ください。黒い十字架がセルビア人犠牲者とされる人への慰霊碑です。

このボシュニャク人によるセルビア人の虐殺は、その後のユーゴスラビア紛争を裁く国際法廷などでも度々セルビア系戦犯の言い分として使用されましたが、それを裏付ける証拠は見つかっていません。

7. 現在のスレブレニツァの中心地

スレブレニツァの中心部。ミナレットが美しいモスクがあり、それを囲むように通りが伸びています。

しかし一歩後ろを振り返ればボスニア紛争時の爪痕がくっきりと残る街。

銃弾や迫撃砲のあとがくっきりと残る廃墟も多く残されており、また街も非常にひっそりとしていてあまり人が住んでいる気配を感じない不気味な雰囲気。

まさにいまも人々は紛争の爪痕とともに未来を見ることもできずに生きているのです。そういう意味ではセルビア人もボシュニャク人も関係ないのかもしれません。

ボスニア紛争前はカトリック教徒であるクロアチア人、正教徒であるセルビア人、イスラム教徒であるボシュニャク人が共存していた街。

街のカトリック教会の裏山に見えているのはイスラム教徒の墓石。

教会裏庭には古代ローマの遺跡も。

非常に長い歴史のある街であったことがわかります。

そんなカトリック教会の前からはモスク、正教会が全てみえます。

わずか200メートルの範囲に3つの宗教の建物がある街。いかにスレブレニツァが文化的にも融和していたかが伺えます。

8. スレブレニツァ民族浄化を生き残った人たち

今回は幸運にも、スレブレニツァ民族浄化に巻き込まれ夫を無くしたものの、本人はなんとか生き延びることができ、紛争終了後に避難先の国から帰還した生存者のお宅を訪問することができました。

ボスニアコーヒーや庭でとれたローズを使った伝統的な飲み物、ピタと呼ばれるボスニア料理でおもてなし。

辛い思い出があるにも関わらず帰還したのは「やはり自分の故郷はスレブレニツァだから」。今はガーデニングや家庭菜園を楽しんでいるようで、そこに自分の子供や孫達もあつまり今はとても幸せな生活をおくっていました。

唯一の希望が見えた気がしました。

ただ、家の裏庭に目をやれば紛争中に破壊された廃墟が多数。

道路を挟んだ向かい側に住むのはセルビア人家族。スレブレニツァに帰還してから一度として口をきいたことも挨拶をしたこともなく、誰が住んでいるのかも知らないとのこと。

今回スレブレニツァの博物館内でガイドしてくれた方も生存者の方。自分のベストフレンドは不思議にもサラエボの大学で出会ったセルビア人(セルビアのセルビア人)なんだとか。

ただし、「スレブレニツァのボスニア系セルビア人の中に友人と呼べるような友人は一人もいない」、「彼らは虐殺を否定するし一度も謝らないから」と。

地域における民族間の溝は紛争後、より深く刻まれているようでした。

また、スレブレニツァではないですが、同じくボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルで出会った生存者の人は今でも「(国連部隊のシンボルであった)ブルーヘルメットを見ると未だに怒りがこみ上げてくる」とおっしゃっていました。

彼もまたモスタルでクロアチア人義勇軍により強制収容所へと送られた犠牲者。

多くのジャーナリストが現場に入り、国連軍さえ国内にいたにも関わらず、世界は無関心。

国連の目の前で見捨てられ自分たちが被害者になったという強い憤りの感情は人々の心からは消えることはないのかもしれません。

9. 現在の国際社会

国連の歴史の中で最悪の失敗であり、第2次世界大戦後ヨーロッパ最大の汚点とも言われるボスニア紛争。

現在スレブレニツァの虐殺を含む多くのスルプスカ共和国軍や義勇軍の戦犯は逮捕され、ハーグで行われた旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷によって裁かれています。

当時のユーゴスラビア大統領であったミロシェビッチはボスニア紛争やコソボ紛争での人道に対する罪で起訴、その後2006年に獄中死しました。スレブレニツァ虐殺を直接指揮したムラディッチの裁判は2017年に結審。終身刑が言い渡されました。

また、近年オランダ最高裁判所がオランダ軍による責任も認定し、スレブレニツァ虐殺に巻き込まれた生存者や遺族に対する賠償をオランダ軍に命ずるなど、国際社会のずさんな対応も責任を問われています。

一方で、現在もスルプスカ共和国側はボシュニャク人に犠牲が出たことは認めているものの民族浄化・虐殺の事実は否認しています。

この虐殺に関わった多くのボスニア系セルビア人が依然としてスルプスカ共和国側の要職についていると言われており、虐殺を指揮したムラディッチを英雄視しているセルビア系住人も多くいます。

事実、この拘束・裁判に反対する1万人規模のデモがセルビアで起きたりもしました。

明らかな証拠があるにも関わらず国際社会は見て見ぬ振りを続け、国連軍のいる目の前で行われた民族浄化。20世紀末にヨーロッパでこんなことが起きていたこと、この事件から世界は何か学んだのでしょうか。

10. 最後に

今回は第2次世界大戦後最大のジェノサイドといわれるスレブレニツァ虐殺とその後について紹介しました。

わずか20数年前、サラエボオリンピックの成功後わずか10年しか経っていない時期に国際社会から見放され、セルビア系住民による民族浄化が完了したというこの事実について、遠い世界の話としてではなく、身近な出来事であると一人一人がしっかりと認識することが非常に重要です。

ボスニア紛争後、今のボスニア・ヘルツェゴビナも依然として民族間に深い溝が精神的にも政治的にも残っています。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの中の国土の49%はセルビア人の政治家によって統治し、セルビア系住民が住み、セルビア系の教育が行われているスルプスカ共和国、国土の51%がボシュニャク人、クロアチア人が住み独自の教育と政治が行われているボスニアヘルツェゴビナ連邦に分断され、状況は不安定なまま。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナという国にいるにも関わらず、行く場所行く場所でクロアチアやトルコ、セルビア国旗が掲げられ、地域の分断は紛争後より明瞭になりました。

特に政治的な問題は深刻。

クロアチア人のための政党、セルビア人のための政党、ボシュニャク人のための政党などが乱立し、現在国会を構成する政党数だけでも30以上。国家予算の大部分が政治家の給与と警備費に使用されるという近代国家ではあり得ない状況が続いています。

また政治家の汚職がひどく、失業率も5割近いという経済状況の中、毎年行われる選挙の際には各民族を代表する政党が未だに民族主義的な政策を掲げ支持を集めようと様々な運動が行われるそうです。

1900年代前半に起きたバルカン戦争以来。25年に1度戦争が起こってきたボスニアヘルツェゴビナ。2018年現在、最後の紛争から23年がたちました。

今後この地域の平和と安定のために、国際社会が何ができるのか。これ以上の失敗は許されません。

3件のコメント

観光案内のホームページでこれだけしっかりまとめてあるのは素晴らしいです、ありがとうございます。
書いている方が共感をもってレポートしていることが感じられます。

オランダ在住で、昨年からボスニアのスレブレニツァと、セルビアでピースワーク「アースキャラバン」の活動をしております。

>今後この地域の平和と安定のために、国際社会が何ができるのか。これ以上の失敗は許されません。
国際社会は今何かをやっているのでしょうか?分かりません。。。
でも個人レベルでできることは、小さくてもあります。
私達の活動にご関心のある方はwww.earthcaravan.cp.jpを見てみてください。この夏も、スレブレニツァでストリートカルチャーフェステバルを地元と合同で開催します。
「スレブレニツァ、希望の街」という地元のイニシアティブを紹介しているサイトのリンクをしておきます。
https://kotaro-journal.com/the-project-which-can-change-the-image-of-srebrenica-from-the-city-of-tragedy-to-the-city-of-hope
エコツーリズムプログラムのプログラムを通して地域経済社会を活性化させようというイニシアティブです。
http://www.srebrenicahope.wordpress.com (英語)

スレブレニツァはオランダではこの件はいまだに国レベルでの深いトラウマとなっています。
オランダ軍はピースキーパーということで軍備がほとんどない状態で配置され、フル軍備のスルぷスカ軍と交渉することになったことが抵抗できない一番の理由であったと思います。戦うこと自体が不可能だったのです。
人道物資も攻撃され十分に届かない状態でしたし、全体の状況はここで書かれているよりももっと複雑です。紛争が泥沼化して解決の希望がない中で、どの国も軍隊を出したくなかった。オランダだけが軍を出す無理難題を引き受けたのです。

ボスニアック人はスレブレニツァが包囲されてから物資に事欠き、復讐も兼ねて、夜な夜なセルビア人の村へ略奪、レイプ・殺戮に出ていったのをオランダの軍隊は見ています。またこの地域での、紛争初期のボスニアック人側のセルビア人に対する虐殺の事実はいくつもありますが、国際社会がボスニアを被害者、セルビアを加害者としてのみ印象づけたかったため、そのことはあまり語られません。否定するのはセルビア人側だけでないですね。
現在も裁判では、ボスニアック側の戦争犯罪は、セルビア・スルぷスカ側に比べあまり裁かれていない状態かと思います。Kravicaというセるビア人の村ではあろうことかクリスマスの夜に攻撃をかけ虐殺が行われました。しかし今Massacre de Kravica といえば、セルビア人によるボスニアック人の虐殺のほうが出てきます。
ボスニアック側のムラジッチといってもいいような、Nasar Oricなどは、たいした罪にも問われずじまい。
しかし、全犠牲者の75%がボスニアック、25%がセルビア人なので、人数的には圧倒的な差がありますが!
ボスニアでは彼らの多くが凄惨な民族浄化の犠牲になったことは動かせない事実です。ただ、片方が犠牲者だけ、あるいは加害者だけ、ということは、戦争ではまずない、バルカンも例外ではないということだけ言いたかったのです。
犠牲者はボスニアックの方々だけでない、ということも。。。本当の犠牲者は国を問わず、一般人ですね。
偉い人はほとんどいつも安全なところにいますから。

私達は両方の国と、スレブレニツァでもの両方の人とつながりがあるので、どちらにも深い傷と痛みがあること、感じます。
とにかく、いまだに大変ですが、でも希望を捨てないで未来を創ろうという人々がいること、本当に心を動かされます。
だからこそ、少しでもサポートできれば、というのが活動の原動力です。

スレブレニツァにぜひ訪れてください、素晴らしい人々と、美しい自然があります。豊かな食文化も、歴史も。。。
宗教を争いの理由にさせない国際社会をつくること、夢です!
長く書いてしまって、すみませんでした。日本語でこの件を話す機会がほとんどないので。。。

やはり色々な人が訪れて世界にオープンになることが復興にとって非常に重要なステップだと実際に訪れて強く感じました。
対立はそう簡単に消えるものではないですが、起きてしまったことから学び次の世代へと引き継いでいくことが大切です。
そういう意味でも「観光」地という分類にするのは躊躇しますが、一人でも多くの人が実際に訪れて一人一人考えてほしい場所だと思います。

初めまして。
凄く分かりやすくまとめてあるし読みやすかったです。
ありがとうございます。
そこで住んでいる人たちの今の声が非常に興味深いものでした。
少し遠い国の出来事だけど、無関心でいる事は残酷で恐ろしいことなんだと非常に参考になりました。
ありがとうございました。

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